【Netflix】『九条の大罪』悪人を弁護することは悪なのか――柳楽優弥×松村北斗が揺さぶる正義
作品情報
犯罪者や社会のはぐれ者を依頼人として引き受ける弁護士・九条間人と、彼のもとで働くことになったエリート弁護士・烏丸真司。
正反対の価値観を持つ二人が、法とモラルの境界で揺れる事件に向き合っていく物語です。
あらすじ
主人公の九条間人は、半グレやヤクザ、風俗業者など、社会の裏側に生きる厄介な人間たちの依頼を引き受ける型破りな弁護士。
九条法律事務所にやってきた東大卒のエリート弁護士・烏丸真司は、道徳や倫理を度外視して依頼人の利益を最大化する九条の手法に強い疑問と葛藤を抱く。
ひき逃げ事故、暴力団絡みの罪の身代わり、介護施設で行われる詐欺や虐待、AV業界の闇に巻き込まれる少女など、次々と持ち込まれる過酷な事件。九条を執拗に追う刑事・嵐山の捜査や過去の因縁が複雑に絡み合い、九条たちは危険な裏社会の暴力の連鎖へと巻き込まれていく。
「正義」と「悪」の境界線に立たされるクライムドラマ
Netflixドラマ『九条の大罪』を観ていて、まず惹かれたのは主人公・九条間人のつかみどころのなさでした。
半グレやヤクザであっても、依頼を受ければ分け隔てなく弁護する九条。
扱っている事件だけを見れば、もっと冷酷で威圧的な人物として描くこともできたはずです。しかし、柳楽優弥が演じる九条は、力を誇示するわけでも、正義を大声で語るわけでもありません。飄々としていて、どこか気が抜けているようにさえ見える。それなのに、ふとした表情や行動から優しさがにじみます。
その優しさを、作品は分かりやすく説明してくれません。
九条がなぜその相手を弁護するのか、本当はどこまで割り切っているのか。観ている側は、彼の言葉よりも視線や沈黙を手掛かりに考えることになります。この「簡単には理解させてくれない主人公」が、物語を追いかける大きな理由になりました。
そして、九条とは対照的な烏丸真司が隣にいることで、彼の輪郭が少しずつ見えてきます。二人のやり取りには、法律をめぐる緊張感だけでなく、相性の違いから生まれる可笑しさもあります。そこへ、個別の事件が徐々に京極へとつながっていくサスペンスと、強く印象に残る映像表現が重なり、『九条の大罪』は重い題材でありながら、続きが気になるドラマになっていました。
九条と烏丸――同じ事件をまったく違う角度から見る二人
九条は、依頼人がどのような人間であっても弁護士としての仕事をします。被害者の立場から見れば納得しにくい弁護もあり、その姿勢だけを切り取れば「悪人の味方」に見えるかもしれません。
ただ、九条を観ていて感じたのは、犯罪者を特別扱いしているのではなく、最初から人を単純に選別していないのではないか、ということでした。
社会から見放されるような人物であっても、依頼人として目の前にいる限りは向き合う。そこにはドライな職業意識がありながら、同時に、見捨てられた人間をそのままにはできない優しさも感じます。
柳楽優弥の芝居は、その二つを台詞で説明せずに見せてくれます。普段は力が抜けているのに、依頼人や事件の核心に触れた瞬間だけ空気が変わる。感情を大きく表に出さないからこそ、目線の動きや短い間が気になります。九条の中にある葛藤を、こちらが探しながら観る余地が残されていました。
一方、松村北斗演じる烏丸は、九条よりも正しさの基準が見えやすい人物です。
常識や倫理観を持って九条に向き合うため、観ている側も最初は烏丸の視点に近いところから物語へ入れます。九条の判断に疑問を持ち、ときには反発する烏丸がいることで、「法律の上では正しくても、それで本当にいいのか」という違和感が置き去りになりません。
この二人の関係が魅力的なのは、単純に正反対だからではなく、烏丸が九条に影響され、烏丸のまっすぐさが九条の感情を引き出しているように見える瞬間があります。先輩と後輩、師匠と弟子といった言葉だけでは収まらない距離感です。
最初から息の合ったバディではなく、互いの考えを完全には理解できないまま、それでも同じ事件に向き合っていく。少しずつ相手の見方が変化していく過程に無理がなく、派手な掛け合い以上に、二人の間にある沈黙や微妙な表情が印象に残りました。
半グレたちの可笑しさが、物語の怖さをむしろ強くする
『九条の大罪』には暴力や搾取が描かれ、扱う題材も決して軽くありません。それでも、観ていて息苦しさばかりが続かなかったのは、半グレたちの会話に妙な可笑しさがあったからです。
もちろん、彼らが安全で親しみやすい存在として描かれているわけではありません。
行動は身勝手で、突然何をするか分からない怖さもある。それでも、仲間同士で交わす会話や、どこかずれた反応には人間臭さがあります。
シリアスな場面の途中で思わず笑ってしまい、直後に「この人たちは危険な側にいる」と思い出させられる。その振れ幅が独特でした。
単純な悪役として距離を置けない分、彼らの暴力が急に現実味を持って迫ってきます。少し笑える人物だから安心なのではなく、笑える部分と恐ろしい部分が同じ人間の中に同居している。その描き方が、この作品の居心地の悪さであり、面白さだと思います。
物語の進み方にも引き込まれました。序盤はそれぞれの依頼や事件を追う形ですが、回を重ねるにつれて、別々に見えていた人物や出来事が少しずつ結びついていきます。その先にいるのが、ムロツヨシ演じる京極です。
京極は、分かりやすく怒鳴ったり暴れたりしなくても怖い人物でした。穏やかに見える場面でも、画面にいるだけで何かが起こりそうな緊張があります。九条の過去や現在の行動とも徐々につながり、単発の事件を追っているつもりが、気づけばより大きく不穏な流れへ入っている。この構成がうまく、次の話へ進む手が止まりませんでした。
事件が解決しても、気持ちよくすべてが片付くわけではありません。法律上は決着しても、人の感情や失われたものはそのまま残ります。
その後味の悪さを無理に感動へ変えず、しかし重苦しいだけにもせず、笑いと緊張の間を行き来しながら見せているところに、本作らしさを感じました。
構図と光、OP――物語と切り離されていない映像の美しさ
映像制作に携わる立場から、特に見応えがあったのが画面の作り方です。
映像が美しい作品は多くありますが、『九条の大罪』は単に照明がきれい、構図が格好いいというだけではありません。人物を画面の端に寄せたり、手前の物越しに見せたり、顔の一部を影に沈めたりすることで、台詞とは別のところでも人物の状態を伝えていました。
会話場面でも、話している人の顔を順番に映すだけではありません。二人の間に大きく空間を取ったり、あえて障害物を挟んだりすることで、心理的な距離や力関係が見えてきます。画面を一時停止したときにも、人物と背景、明暗の配置が一枚の絵として成立しているショットが多くありました。
私自身、何度か再生を止めて「なぜこの画面が印象に残るのだろう」と見返しました。そこで感じたのは、見栄えのよい構図を作ること自体が目的ではなく、その場の感情に合わせて画面が設計されているということです。九条の本心が読めない場面では、表情をすべて見せずに余白を残す。人物が追い詰められる場面では、空間が狭く感じられる配置にする。映像の美しさが、登場人物の感情や物語の不穏さときちんと結びついていました。
OPも毎回飛ばさずに観たくなる仕上がりです。羊文学の「Dogs」と映像がよく合っており、格好よさの中に生々しさと危うさがあります。本編の映像を並べただけの導入ではなく、人間の内側にある暴力性や、誰かに従うこと、群れから外れることなど、作品全体に通じる感覚を短い時間で見せているように感じました。
OPから本編まで画面の密度が途切れず、細部まで意図をもって作られている。物語を追うだけでも楽しめますが、構図や光、人物の立ち位置に注目して見直すと、最初とは違う発見がある作品だと思います。
まとめ:割り切れない九条を、もう少し見ていたくなる
Netflixドラマ『九条の大罪』で最も魅力を感じたのは、九条を分かりやすい善人にも悪人にもしていないことです。
犯罪に関わった人間を弁護しながら、その行動の奥には確かな優しさが見える。しかし、その優しさだけですべてを肯定することもでない。九条自身も迷いや葛藤を抱えているように見え、最後まで簡単にはつかませてくれませんでした。
そんな九条の隣に、考え方の異なる烏丸がいるからこそ、二人の会話や沈黙が面白くなります。半グレたちのコミカルさは重い物語の息抜きになるだけでなく、人間を善悪だけで分けられない不気味さにもつながっていました。そして、個々の事件が京極へと近づいていくサスペンスが、物語を一本の太い流れに変えていきます。
構図や光、OPを含めた映像にも強いこだわりがあり、一時停止して細部を確かめたくなるショットが何度もありました。それでも、映像だけが目立って物語から浮くことはなく、九条の読めなさや登場人物同士の距離を伝えるために機能しています。
九条の選択を簡単には肯定も否定もできないまま、彼が次に何を選ぶのかをもう少し見ていたくなる。その割り切れなさが、私にとって『九条の大罪』の一番大きな魅力でした。
Netflix版の物語を引き継ぐ完全新作映画は、2027年1月8日に公開予定です。ドラマで積み重ねられた九条と烏丸の関係が、スクリーンでどのように変化していくのか楽しみにしています。
