『夏雪ランデブー』が描く、死者と生者の“共犯関係”――涙なしには語れない、最も切なく美しい三角愛の物語
作品情報
動画工房が制作した本作は、花屋の店長・六花に恋した青年・葉月と、彼女に憑く亡き夫の幽霊・島尾との奇妙な三角関係を描いています。
最大の魅力は、死別という重いテーマを、ユーモアと切なさの絶妙なバランスで描く心理描写です。愛する人の「過去」である幽霊と対峙し、それでも「現在」を生きようとする葉月の執念と、残された者の喪失感が、鮮やかな花々の色彩と共に胸に迫る、美しくも苦い名作です。
あらすじ
たむける花も選ばずに、ずっとそばにいるだけでいい ――。
目つきは悪いが純情一途な花屋のバイト青年・葉月(はづき)亮介。彼がひそかに想いをよせるのは、店長の島尾六花(ろっか)。一目惚れした六花の花屋に通い詰め、バイト募集を機にそこで働くことに。念願叶ったものの、8つ年上の彼女は恋愛を諦めている様子。目の前にいるのに何もできない自分に歯がゆさが募るばかり。ある日、とある用事で花屋の2階の彼女の自宅に呼ばれて行くと、そこにはなんと上半身裸の男。予期せぬ事態に半ば憤り、半ば呆れる葉月だったが、意外な事実が明らかに。その男は六花の同棲相手ではなく、すでに亡くなった彼女の旦那の幽霊(島尾篤)だという。六花には見えないらしい島尾(幽霊)は何かと葉月の恋路の邪魔をし、葉月もそれに屈せず押しの一点張りで頑張るがなかなか埒が明かない。そんな中、島尾(幽霊)が切り出した予想外の提案とは・・・
その恋は、幽霊公認? それとも……
「花屋の店長に恋をしたら、彼女の背後には死んだ旦那の幽霊が憑いていた」
あらすじだけを聞けば、少し変わったファンタジー・ラブコメディのように聞こえるかもしれません。しかし、2012年に「ノイタミナ」枠で放送されたアニメ『夏雪ランデブー』は、そんな軽やかな言葉では到底括りきれない、人間の業(ごう)と愛の深淵を描いた傑作です。
主人公の青年・葉月亮介、未亡人の店長・島尾六花、そして六花に憑く亡き夫・島尾篤。 この奇妙な三人(?)が織りなすのは、甘酸っぱい恋模様などではなく、死別の悲しみ、遺された者の罪悪感、そして愛するがゆえの執着が絡み合う、ヒリヒリするような魂の対話です。
放送から10年以上が経過した今なお、多くのファンの心に棘のように刺さり続けている本作。 なぜ私たちは、この静かで淡々とした物語にこれほどまでに心を揺さぶられるのか。 今回は、ベテランコラムニストの視点から、原作の余白を埋めるアニメーションの豊かさと、登場人物たちが選んだ「愛の結末」について、深く掘り下げていきたいと思います。
「僕ガ死ンダラ、僕ノ骨少シ食ベラレル?」――島尾篤という幽霊の愛とエゴ
本作を語る上で避けて通れないのが、幽霊となった夫・島尾篤の存在です。 彼は単なる「恋の邪魔者」ではありません。病によって若くして妻を残さなければならなかった無念、愛する女性が自分以外の男(葉月)に惹かれていく様を特等席で見せつけられる絶望。 彼の抱える感情は、あまりにも人間臭く、そして切実です。
物語の中で衝撃的なキーワードとして登場するのが、島尾が遺した**「骨を食べてほしい」**という願いです。 これは一見、狂気じみた猟奇的な愛に見えるかもしれません。しかし、作中で語られる「木を愛した女の昔話」と照らし合わせると、そこには「生まれ変わっても一緒になりたい」「彼女の一部になりたい」という、純粋すぎて痛々しいほどの願いが見えてきます。
また、六花が島尾の背中を舐める回想シーン。 「ばっちい」と拒む島尾に対し、「動物のにおいがする」と返す六花。 闘病生活で風呂にも入れない夫の体を、愛おしむように受け入れる妻。そこには、綺麗事だけではない、生身の人間同士の生々しい愛の形がありました。 島尾は幽霊になることで、肉体という「愛を伝える手段」を失いました。だからこそ、葉月の体を借りてでも、六花に触れたかった。絵本のような幻想世界を作り出してでも、彼女との時間を紡ぎたかった。 彼の子供じみた悪戯や嫉妬は、すべて「まだここにいたい」「忘れられたくない」という魂の叫びなのです。
「店長が許してくれるなら、旦那のこと一緒に食べたっていい」――葉月亮介の覚悟と包容力
一方で、主人公である葉月亮介のスタンスもまた、常軌を逸した「愛」に満ちています。 普通なら、好きな女性の亡き夫(しかも幽霊として目の前にいる)など、一刻も早く成仏して消えてほしいと思うものでしょう。 しかし彼は、島尾という存在ごと六花を受け入れる道を選びます。
象徴的なのが、「旦那のこと一緒に食べたっていい」というセリフです。 これは、六花が抱える過去も、島尾への未練も、そして島尾自身の願いさえも、すべて背負って生きていくという究極のプロポーズに他なりません。 島尾の首に残された噛み跡(嫉妬の印)を見て、自分も同じように愛したいと願う。 葉月のこの懐の深さ、あるいはある種の「鈍感力」とも言える強さがなければ、この物語は陰惨な泥沼劇で終わっていたことでしょう。
彼は、島尾に体を貸すことで、島尾の視点や感情を追体験します。 「ライバル」という立場を超え、同じ女性を愛した男同士として、奇妙な共感と理解が生まれていく。 この三角関係が単なる取り合いにならず、互いを尊重し合う(あるいは諦め合う)ような崇高な領域に達したのは、葉月亮介という男のキャラクター性によるところが大きいのです。
「おじいちゃんと呼んでごらん」――夏雪草が咲く場所で見つけた、それぞれのハッピーエンド
物語の結末は、決して派手なものではありませんが、深い余韻を残すものでした。
島尾は結局、自分の手で六花を幸せにすることはできませんでした。 しかし、葉月の体を借りて最後の対話(ランデブー)を果たし、六花の背中を押すことはできました。 「六花ちゃんを幸せにする」こと。それは、自分自身が彼女を縛る鎖になることではなく、彼女が新しい人生を歩めるように手放すことだったのです。
ラストシーン。時が流れ、老いた六花が亡くなり、葉月もまた天寿を全うしようとするその時まで、島尾はずっと彼らを見守り続けていました。 六花によく似た孫に「おじいちゃんと呼んでごらん」と語りかける島尾。 そこには、かつてのような激しい嫉妬や未練はありません。自分には叶えられなかった「孫を持つ」という夢を、葉月と六花が叶えてくれたことへの感謝、そして少しの自虐とユーモアが入り混じった、穏やかな成仏の姿がありました。
タイトルの「夏雪(なつゆき)」とは、夏雪草(セラスチウム)のこと。 花言葉は「幸福」「才能」「思いがけない出会い」。 島尾篤という存在は、六花にとっても葉月にとっても、まさに夏雪草のような、美しくも儚い、人生を変える出会いだったのかもしれません。
原作のあっさりとした描写を、アニメーションならではの演出、Aimerや松下優也による情緒あふれる楽曲、そして中村悠一、大原さやか、福山潤といった実力派声優陣の演技で肉付けし、濃密なドラマへと昇華させた本作。 悲しく切ないけれど、見終わった後には静かな温かさが胸に残る。 大人のための、極上の恋愛アニメーションと言えるでしょう。
まとめ:愛する人の「過去」ごと愛せますか?
『夏雪ランデブー』は、私たちに重い問いかけを投げかけます。 愛する人が、自分以外の誰かを強く想い続けていたら。その相手が、もう二度と会えない死者だとしたら。 あなたはそのすべてを受け入れ、それでも愛し抜くことができるでしょうか?
葉月くんの強引なまでの純愛、六花さんの抱える喪失の痛み、そして島尾くんの切なすぎるエゴイズム。 どの視点に立つかによって、この作品の見え方は大きく変わります。 若い頃に見れば葉月くんに共感し、歳を重ねてから見れば島尾くんや六花さんの心情に涙するかもしれません。
淡々とした日常の中に潜む、濃厚な情念。 もしあなたが、安易なハッピーエンドではない、噛めば噛むほど味が出るような深い人間ドラマを求めているなら、この作品は間違いなく「生涯の一本」になるはずです。
あの花屋の店先で、夏雪草が揺れる時。 彼らのランデブーは、今もどこかで続いているのかもしれません。
©2012 河内遙/祥伝社/アニメ「夏雪ランデブー」製作委員会
